第十四回:中村半次郎

四大人斬り最後は中村半次郎です。

桐野利秋という名前の方がわかる方もいるかもしれません。
薩摩藩士で西郷さんの右腕の男です。


彼は小示現流を伊集院鴨居道場で、西田町では江夏仲左衛門から野太刀示顕流を学んだと言われています。

ただ、彼はとても貧乏で、早くに父と兄を亡くし、昼夜なく働き道場にしっかり通うことはできなかったため、剣術はほぼ独力で修行したそうです。
貧乏なため、周りからは様々な侮辱を受けそれをバネに朝から晩まで稽古していたそうですね。

(木を木刀で1日8000回も打ち付けていたそうです)

彼の剣術は天才的で、その名が徐々に知れ渡り、岩見半兵衛が半次郎へ決闘を申し込みました。
半次郎は「こんなに小さいことで、決闘をするなんて男の恥だ」と笑い、結局、半兵衛と仲良くなってしまったそうです。

半兵衛も後々、中村についてよく語っています。

西郷隆盛を慕っていたそうで、有名なエピソードでこんなものがあります。

あるとき中村は西郷に頼み事があって家に訪ねるときのことです。
中村は貧乏だったため、しっかりしたものを用意できず、サツマイモ数本だけを持参したそうです。
そのとき西郷留守で、帰宅した西郷に家人が笑いながら中村の訪問を伝えたところ西郷は

「半次郎さんがどんな気持ちでこれを持参したか理解出来ないのか」

と憤激したそうです。後でそれを聞いた中村は涙を流し西郷に感謝したそうです。


島津久光の上洛部隊に編入されて上京しました。
その腕を見込まれて、中川宮朝彦親王付守衛となっています。
そこから徐々に各藩の勤王攘夷派の志士と交流を深め、彼も倒幕を唱えるようになりました。
そのため、薩摩藩士でありながら、長州藩邸にも出入りし、繋がりを持っていたそうです。


西郷隆盛の大久保利通宛の手紙には

「半次郎は長州藩邸にも出入りしているので、長州側の事情はよく知っている。
本人が長州へ行ってみたいというので、小松帯刀と相談し、脱藩したことにして長州内部へ、スパイとして行かせることにしました。本当に脱藩してしまうかもしれないが、もし帰ってきたら役にたつでしょう」

と書いています。
しかし、結局入国できず、当時は長州へ薩摩藩士が入ることはできなかったそうですね。


半次郎は薩摩と長州の和解を策して動こうとしていたそうですね。
まあ、結局"禁門の変"が起こり、半次郎は薩摩側として長州と戦いました。
「積極的に戦っていた」という話や、
「戦闘を避けて長州人を助けた」
という話と、様々な証言が残っているそうです。
ちなみに彼は西郷や、小松帯刀にとても可愛がられ信頼されていたそうですね。
いろんな人と仲良くなっている事から、好かれやすい性格をしていたのでしょうかね。


彼は非常に頭が良く、

「中村半次郎は真の正論家で、熱い倒幕思想を持っている」

と語られ、西郷も、

「中村に学問があれば俺の及ぶところではない」

と彼の事を評しています。


勝海舟は、政局を動かしている一人として、西郷、大久保、小松、桂などと並べて中村の名も語られています。

また

「西郷の部下の桐野(半次郎)は、なかなか俊才であった」

と語っています。


大隈重信は「彼は派手だった。また、西南戦争の西郷に次いで凄かったのはの桐野利秋(中村半次郎)だ。
身体が大きくて立派で、容姿や態度の優れた男だった。着物をぶざまに着るようなまねはせず、それも汚れ目の見えぬきれいな物づくめであった」

と語っています。
まあ、かなりのお洒落好きで、ブーツを履いたり時計をしたりしていたそう。
亡くなったとき遺体から香水の香りがしたそうですよ。

友人の中井弘は、
「彼はよくいわれるような粗暴な男ではなかった。藩外の脱藩者ともつきあって、世情に通じ、兵隊連中の中では珍しいほどの趣味人だった」
と語っています。

淡泊な性格でどんな人にも壁を作らず、上下・貴賤の差別もなく、誰が来ても、同じ部屋へ通して、遠慮なしに話をするのが常でした。
また彼は暴れ者を御するのが得意で、他の者では、どうにもならない者も、中村は巧みに扱って、不平を起させないようにしたそうです。
よく、
「おれはワシントンをやるのだから、どんな暴れ者でも、扱わなくてはならぬ」
と語っていたそうです。

坂本龍馬とも親しく、龍馬が寺田屋で襲われた後、毎日のように龍馬を見舞いに来ていたそうです。
日記でも「今日は坂本と道端で偶然あった」など書いているそう。
また、龍馬が暗殺された際には、犯人探しから海援隊等の手伝いに奔走しています。葬儀後は龍馬の甥達と龍馬の墓参りをしています。

天誅行動で鳴らし「人斬り半次郎」の異名をとった半次郎ですが、実は正式な記録としては一人しか暗殺していません

薩摩藩で陸軍教練をしていた砲術師範の赤松小三郎暗殺です。

彼は佐幕派と親密になり、幕布側の間者を疑われたため殺されたと言われます。

四条烏丸通りにて、赤松が拳銃に手をかけた瞬間、発砲するより速く、中村は赤松の肩から腹にかけて一刀両断したそうです。

ちなみに"暗殺"なので明らかになっていないのは当然なことで、彼はかなりの人を斬っている可能性は高いですね。

当時、中村は剣の腕をあげる秘訣について、

「ひと月に一人ずつ斬れば、日々剣法を学ぶにまさる」

と周りの人間に語っていたそうです。


後年、毎晩のように中村が悪夢にうなされていたそう。
「某所で斬った奴が血みどろになって挨拶に来た」
と言っていたとか…


西郷達と戊辰戦争や、彰義隊との戦いにも参戦し、かなりの活躍をしたそうです。
その後も彼は武功をあげて出世していきます。

会津藩降伏後の開城の式では、官軍を代表して城の受け取り役を務めました。
"城の受け取りに行った中村半次郎は男泣きした"
と記録されています
この時の事を半次郎は「涙を禁じ得なかった」と語っていたそうです。
半次郎が城中の会津藩士に親身になって接してくれたことから、後に松平容保は半次郎へ宝刀を贈っています。

明治になると鹿児島の第一大隊の隊長となり、大久保利通と連絡を取り合うなど、新政府と元薩摩のパイプ役を担っていました。

小さな頃はかなりの貧乏で、そこから政府高官まで成り上がったということで、
「見よやい、薩摩のイモざむらいが今じゃ大名屋敷に住んでおる」
と自慢していたそうですね。


しかしその後、政府と薩摩が対立し、西南戦争が勃発する頃には薩摩の総司令官になり、戦いました。
結局、西南戦争にて彼は額を撃ち抜かれ壮絶な最期を迎えます。



彰義隊の戦いの後、湯屋からの帰りに神田三河町で3人の侍に襲われ、1人を斬り撃退したが、左手中指と薬指を失ったと言われます。
ちなみにこの時も仲間と一緒にいました。

中村はかなり用心深く、ほんの少しの時間も一人では外出しなかったと言われています。



特に彼の居合いは凄まじく

雨粒が地面に落ちるまでに、三回抜刀して鞘に納めたと言われるほどです。


またその居合いは、すれ違い様に、歩くテンポを変えずに人を斬り終えると言われるほど速かったそうですね。


彼の暗殺を止めようとした侍が、あまりの見事さに見いってしまったという話もあります。

ちなみに、彼の友人は「半次郎は斬ると言ったら、斬るやつだ」と語っていたそうです。

新撰組も「中村は相手にするな」と言われていたそうです。それほどに彼の剣は常軌を逸していたのでしょう。


ランクC


です。
四大人斬りの中では、最も周りから剣の評価が高い記述が多く、まず間違いなく最強といって良いでしょう。

また、他の三人の人生に比べると、彼は少し幸せな時期も多かったのかなと感じました。

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