第十三回:岡田以蔵

岡田以蔵幕末四大人斬りの中でも最も有名なんじゃないかなと思います。
「人斬り以蔵」として広く知られていますね。(当時は"天誅の名人"と同士達に呼ばれていたそうですが…)


以蔵は土佐藩の郷士です。(土佐藩は上仕と郷士がおり、厳しく身分分けされていた)
尊王攘夷派の土佐勤王党に所属し暗殺役として活動しました。
彼は血盟書など、公の資料に書き込まれないなど、上の人には知らされないような存在だったそうです。


以蔵の父親は足軽家老で、槍の名人だったそうです。幼少期に以蔵は土佐の海岸に現れた外国船へ備えて父親と一緒に七軒町へ引っ越しました。
(七軒町に住んでたため、周りの人たちからは七蔵とか七以と呼ばれていたそうです)

剣術は父から学んだり、独学で工夫して修練していたそうです。

18歳の時に、武市半平太の道場に通い出したと言われています。
そのとき、道場剣術とのあまりの違いにみんな驚いたとか。
「体は大きいのにとても俊敏だった」との話が残っています。

武市半平太について、「土佐一番の剣豪」と呼ばれた麻田直養から小野派一刀流剣術を学び、京では武市と共に桃井春蔵の鏡心明智流を学んでいます。

結局、"中位"までとれようですね。

この時ぐらいに、坂本龍馬とも知り合ったと言われています。

桃井春蔵の"鏡心明智流士学館"は千葉周作の"北辰一刀流玄武館"、斎藤弥九郎の"神道無念流錬兵館"と並んで、後々には幕末江戸三大道場に数えられています。
「位」の桃井、「技」の千葉、「力」の斎藤と言われ、かなり評価は高いですね。


武市と共に九州へ修行の旅へ行き、1年ほど直指流も学んでいます。


その後、武市の土佐勤王党へ参加しました。
ここから彼の暗殺の道のりは始まったと言われます。

"安政の大獄"で尊王攘夷の弾圧に関わった人を次々と切っていくだけでなく、町奉行の関係者も"天誅"のもと斬っています。

ちなみに以蔵は暗殺において刀で斬った記録はほんの数回で、多くは撲殺だったり絞殺だったそうです。

土佐勤王党は結構過激でかつ残虐でした。
まあ、自分達も命が掛かってるということもあり、少しでも目障りな行動をするものがいれば即、天誅の名の元に暗殺されました。

本間精一郎はもともと尊王攘夷の同志でした。裕福で、頭が良く論争に強い性格で、自分の事を良く自慢する性格ということで、貧しい志士らから疎まれていました。そのため、土佐勤王党の武市は彼の暗殺の命令を出します。暗殺を手掛けたのは以蔵、新兵衛、他数名と言われています。


"安政の大獄文吉"の時、島田左近の手先だったと言われる"猿の文吉"暗殺は衝撃的です。暗殺を実行したのは、以蔵を入れて3人でした。
夜中に文吉宅へ忍び込み、拉致。
三条河原へ連行し、裸にして河原の杭に縛り付け、"斬るのは刀の穢れになる"と紐で絞殺しました。
また、かつて、文吉が御所の女官を犯した事への罰として、"竹の棒を肛門へ刺し、体を貫通させて頭まで通され、更に亀頭に釘を打たれて晒された"と伝えられています。
この時捨て札には"犬"と書かれていました。

ちなみに、文吉は尊王攘夷派の侍達から強い恨みを買っていたため、暗殺の計画が出たさい、参加したいという者が、多すぎて、くじ引きで決めたそうです。

村山たかは三条河原に張り付けにされ、三日三晩生き晒しにされたそうです。
まあ、結局女性ということで殺されなかったが、代わりに彼女の息子はさらし首にされました。(本当に酷い話です)
ちなみに村山たかは安政の大獄の際、京都にいる尊王攘夷派等の情報を江戸に送っていたそうで、日本人初の女性スパイと言われています。

様々な暗殺や、周囲への不信からか以蔵はどんどん荒んで行きました。

武市が京へ出ている間に土佐藩を脱藩し、脱藩後は酒や女に溺れ、同志から借金を繰り返し見限られていったそうです。

一時は同郷の坂本龍馬の紹介で勝海舟の元で護衛の仕事もしていたそうです。

勝海舟は彼の以蔵の話を残しています。

以蔵が京都の夜道で海舟の警護をしていたとき、三人の侍が斬りかかってきたそうです。
以蔵は一刀のもとに一人の侍を斬り倒し
「弱虫どもが、何をするか」
と叫んだそうです。
その迫力で残りの二人は逃げていきました。


勝海舟は
「あのときの岡田の早業には流石のおれも驚いたよ」と語っています。

さらに勝は

「だが岡田くん。君は人を斬ることを嗜んではいけないよ。この前のようなことは控えた方が良い」

と以蔵に言うと、以蔵は

「はあ、でもあのときの私がいなかったら先生の首は飛んでいたでしょ?」


と答えたそう。

「これには俺も一言もなかったよ」
と後々海舟は笑い話に語っていたそう。
ちなみにこの時、海舟は以蔵にリボルバー拳銃を贈っています。

海舟は武市の以蔵に対する扱いなどから、土佐勤王党から抜けるように以蔵に促したそうですが、以蔵は聞き入れなかったそうですね…


以蔵は結局、勝海舟の元もはなれ、さらに荒んで結局、宿無しの身となります。

その後、商家への押し借りの犯罪者として捕えられ、土佐藩へ引き渡されました。

ちなみにこの知らせを聞き、武市は「あのような阿呆はどこかでの垂れ死ねばよかったのに…」と語っていたそうです。

そのころ吉田東洋暗殺等の事件の容疑者として土佐勤王党の志士は次々と捕まっていたそうで、以蔵も拷問を受け尋問されました。

この時以蔵は次々と暗殺した人間と、暗殺に加わった同志の名前を自白しました。これにより土佐勤王党の同志はよりいっそう捕まっていったそうです。

女も耐えたような拷問に泣き喚く以蔵に、武市は
「以蔵は誠に日本一の泣きみそであると思う」
「以蔵は不義第一の大虚言の者」

と語っています。

以蔵が自白を繰り返し、同志から逮捕者が続出する事態に、土佐勤王党内から以蔵を毒殺する計画が出ましたが、武市が強引な毒殺には反対したため実行されなかったそうです。


結局、以蔵は28歳にして打ち首でその生涯に幕を閉じます。

彼の時世の句は

「君が為 尽くす心は 水の泡 
消えにし後は 澄み渡る空」


悲しい句ですね。

以蔵は土佐勤王党に所属していましたが、実のところあまり自分の意見を持っていなかったと言われます。(まあ、これも信憑性に乏しく、実際は結構色々な考えを持っていたのかも知れません)


ちなみに以蔵は自白を最後まで後悔していたそうで、死刑宣告をされた際に牢番へ、「武市によろしく伝えてくれ」と言ったそうです。(一方、武市はそれを聞いて、その厚顔無恥に呆れたと語っていたそうです)




以蔵は牢獄の人に、自慢話を大声で話すなど豪快な性格だった反面、どこか悲しい気持ちを隠していたのかも知れませんね。

ちなみに以蔵の容姿などの証言は少ないですね。牢番が「以蔵は出っ歯だった」と語っているみたいですが。
体は逞しかったようですが、気は小さかったようですね。

ランクはE

です。

実際、暗殺事態は数人で行っています。
しかし、勝海舟の証言などを考慮すると、やはり並みの強さではなかったのだと思います。
武市も武者修行の旅へいつも以蔵を同行させていたこと、多くの暗殺に以蔵が加わっていたこと、を考えるとその剣才と、様々な手を駆使して相手を"殺す"事に関しての上手さをとても評価していたのだと思います。








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