第十二回:田中新兵衛

今回は幕末四大人斬りの一人、「人斬り新兵衛」こと、田中新兵衛です。

薩摩藩士の尊王攘夷派です。
この人に関しては資料が少ないですね。
船頭の家に生まれたとも、薬売りの家に生まれたとも言われています。

田中新兵衛の剣の流派は厳密には分かっていませんが、当時、最も恐れられた示現流の一派である薬丸示顕流と言われています。

ちなみに示現流は薩摩藩の古流剣術です。(昔は藩外の者に教えるのは禁じられていたそう)

示現流はかなりの剛剣で知られ、"弐の太刀いらず"と言われていました。
"ただ一撃に全身全霊を賭けて撃ち込む"
というというものです。

嘘か本当か新撰組の近藤勇は「薩摩者と戦うときには、絶対に初太刀はかわせ」と言っていたとか。

ちなみに、一般的には示現流は初太刀さえかわせばなんとかなると思われがちですが、きっちり弐激目も存在しており、技の数も結構多いそうですよ

あまりの剛剣に、薩摩藩士と戦った人の中には、自らの刀の峰や鍔を頭に食い込ませ亡くなった人が多かったとか。(恐いですね)


話を戻します。
新兵衛は幼い頃より武芸達者で特に剣術が優れていたそうです。

新兵衛の有名な人斬りは島田左近暗殺です。
暗殺は、最初6名で暗殺しようとしたが失敗したそうです。

新兵衛はその後1ヵ月もの間、左近を尾行し続け、京都木屋町で愛妾宅へ出向いているところを襲撃しました。

逃げる左近を加茂川の河原まで執拗に追いかけて斬首し、先斗町でさらし首としたと言われています。

ちなみにこの島田左近「今太閤」と呼ばれ、実質、京の町を牛耳っていたほどの政治家です。
有名な"安政の大獄"井伊直弼の指示で、彼が起こしました。
これにより多くの尊王攘夷派の侍を一掃しました。ちなみにこの時、幕府から彼に流れた賄賂は「一万両」と言われています。


"桜田門外の変"にて井伊直弼が暗殺された後は、実質的京の支配者となり、好き勝手やってたみたいですよ。
かなりの女好きで、愛人も凄く多かったみたいですね。
また、町人を相手に高利貸しを行い、奉行所に厳しい取り立てを行わせ、とても儲けていたと言われております。

そのため、町人達からはとても嫌われており、体が見つかって暗殺が公になった際には、

"長州様が、島田左近を成敗してくださった"

という噂で沸き立ったそう。

薩摩藩としても当初は首をさらすつもりはなかったみたいだけど、手柄を長州にとられたくなかったのか急きょさらし首にしたそうですね。

その後、新兵衛は武市瑞山(半平太)と意気投合して義兄弟となりました。

人斬り以蔵などとも組みさらに暗殺を加速させていきます。

以蔵と新兵衛は結構一緒に暗殺をしていたそうで
本間精一郎を手にかけた際には、

以蔵が斬り損なった本間を新兵衛が一撃で殺害したというエピソードも残っています。

ちなみに、後に岡田以蔵が捕縛され、尋問された際、暗殺した者の名前を数多く自白したため、新兵衛の関わった暗殺も結構明るみになっています。

"朔平門外の変"にて姉小路公知が複数名(3名と言われている)に襲撃されて暗殺され、新兵衛は実行犯として捕まります。
現場には新兵衛の愛刀が投げ捨ててあり、薩摩下駄も残されていたためです。
新兵衛が負っていた傷も生き残りの証言と一致していたそうですね。

奉行所にて新兵衛は一言も発っさなかったそうです。
そして取り調べの最中、周りの隙をついて突然、脇差で切腹し、自ら頸動脈を突いて亡くなったそうです。

新兵衛の知人は新兵衛の刀は数日前に何者かに盗まれたと証言しています。

結構不明な点が多い事件なのですが、

事件の生き残りの従者は新兵衛の遺体を確認し、犯人に間違いないと証言したことや、事件後、新兵衛が殺害を自白したと薩摩藩の資料から発見されるなど、新兵衛が実行犯であったのはほぼ間違いないというのが最新の研究です。

侍として、処刑されるよりも自害で終わりたかったのでしょうね。

今回は

ランクD

というところですかね。
結構暗殺は行っているのですが、一対一はなく、複数名で一人を斬殺するという形のため
強さには疑問が残る。




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