第十五回:永倉新八

今回は永倉新八です。
新撰組の二番隊組長で、新撰組三人の撃剣師範の一人です。(撃剣師範は沖田総司、斎藤一、永倉新八)

実は単純に剣術勝負なら永倉が新撰組で一番強かったと語る人もいるほどの剣の達人です。


幼い頃より神道無念流を学び、青年期には道場破りをしながら剣術修行の旅などに出ています。
がむしゃらな性格で「がむしん」と周りからは呼ばれていたそうです。

彼は剣術が、とても好きだったそうで様々な道場で学んでいます。

鳥羽伏見の戦いでは、決死隊を作って刀のみで戦ったりと勇猛果敢で、"武士"、"刀"というものに誇りを持っていた人間なんだと思います。

「竹刀の音を聞かないと飯が喉に通らない」「自分は剣術の他に能はない」
と語り、明治になった後も、北海道へ渡り刑務所の看守へ剣術師範をやったり、自らの道場を開き剣術を教えたり大学で剣術の先生をやったり

剣に生きような人でした。


まあ、本当に最晩年は学生に剣を教えようとして自分の体を痛めてしまうこともあったそうですが…


有名な池田屋事件では、左手の親指から血を出しながら、刀が折れ防具もボロボロになった状態で戦い続け、四名を討ち取ったほどの猛者です。


油小路事件では伊東甲子太朗はじめ藤堂平助御陵衛士を暗殺しました。

事件の概要としては、
伊東甲子太朗倒幕のため、仲間を集めて新撰組を脱退し御陵衛士を結成しました。
御陵衛士薩摩と繋がっており、新撰組組長の近藤勇を暗殺しようと企てました。
しかし、御陵衛士には新撰組の斎藤一もスパイとして潜り込んでいたため、斎藤から新撰組へその情報が渡り、新撰組は御陵衛士達を粛清しました。

というものです。

まあ、最新の研究では、
当時の伊東の書簡を見る限り、対話を重んじるものばかりで、さらに近藤を暗殺しようとしたものはないため、近藤勇暗殺計画というものはでっち上げだったというのが有力ですね。

実際は御陵衛士が長州に寛大な処分をという建白書を朝廷へ提出したことが、長州厳罰論の近藤勇を激怒させ、油小路事件につながったらしいです。

この戦いの際、新撰組の元八番隊組長の藤堂平助も御陵衛士として討たれます。

永倉は近藤から「平助はまだ若いから、逃がしてやってくれ」と頼まれていたいたため、藤堂平助を逃がそうと試みたそうです。

しかし、事情の分からなかった新撰組の隊士に藤堂は討たれたそうです。
まあ、7人程度の御陵衛士を40人の新撰組隊士で討伐したそうですから無理もないような気がしますね。

ちなみに藤堂平助は、新撰組で斎藤一と共に最年少で隊長となった天才剣士で、かなりの美男子だったそうですね。
当時のいろんな資料でその容姿をかなり高く評価されてますね。
結構広く知られていたほどの美貌だったみたいですね。(写真はないけど、もしかしたら土方以上かも…)
体は小さかったそうですが、かなり長い刀を自在に操ったとかで相当な実力者だったみたいですね。


エピソードからもわかる通り、永倉は"義"に熱い人間で、鳥羽伏見の戦いでは土方歳三不在の際は隊長を代わりに行うなど、土方や新撰組の隊士から、かなり信頼されていたそうですね。

ちなみに池田屋事件の後、近藤の我儘な振る舞いが目立つようになると、永倉や斎藤一、原田佐之助達は、脱退覚悟で近藤の非行五ヶ条を会津藩主・松平容保へ訴え出る等、近藤勇・土方歳三との路線対立を見せることもあったそうです。

非行五ヶ条を訴え出た時の永倉らの主張は、近藤勇を局長と認めるが、家臣ではなく同志だとする主張が込められているそうです。
特に永倉や原田は近藤とは新撰組より遥か前の士衛館時代からの同志で、近藤とは縦ではなく、横の"仲間"だと考えていたのかも知れませんね。

近藤や土方へ意見を出せる数少ない隊士で、よく衝突もしていたそうです。
しかし、沖田総司が病気になったあとは沖田の分まで働くなど、その行動から結局、永倉を近藤、土方は信頼していたみたいですね。(まあ、本当に最後の最後に意見の相違から近藤、土方とは道を分かつことになるわけですが…)

ちなみに彼は新撰組のほとんどの戦闘に参加していますが、芹沢鴨暗殺のときだけは知らされていなかったそうです。
芹沢と永倉は同じ神道無念流免許皆伝でとても仲が良かったとも言われています。


斎藤一同様、新撰組の中でも最も多く、修羅場を越えてきた人間の一人です。

晩年は酒に酔うと、ふんどし一枚になり銃創を叩きながら、「お国のために働いた体だ。わしの誇りだ」と声を上げていた。と伝えられています。

(ちなみに永倉は後年、新撰組の事を多くの記録として残していますが、斎藤一との思い出はとても細かく、結構仲もよく密にコミュニケーションをとっていたみたいですね)

ちなみに永倉の必殺技は"龍飛剣"と言うもので、下段の構えから上へ敵の剣を擦り上げながら下へ切り落とすというものだったそうです。


土方歳三の日記が結構前に発見され、その中に壬生浪士組時代の会津上覧試合の様子が書かれていましたね。

確か組み合わせは、
第一試合 藤堂平助 対 土方歳三
第二試合 斎藤一 対 永倉新八
第三試合 第三試合:平山五郎 対 佐伯又三郎
第四試合 沖田総司 対 山南敬助
みたいな感じだったと思いますが、この結果は書かれてないんですよね
知れればもっと面白いんですが…

ちなみに永倉の身長は157、8㎝程度だと言われています。


今回は

Cです。

色々な情報を集めましたが
「永倉は新撰組内では一二を争う力」
との意見が多く、やはり強いのは確かですよね。

元新撰組隊士の阿部十郎は
「一に永倉、二に沖田、三に斎藤」と語っています。しかし、結構沖田や斎藤のことを悪く語ってたみたいですね。
「沖田はただ人を斬ることが好きな乱暴者」「斎藤は剣だけが取り柄な女好き」
と語っていたとかで少し感情的なのかなと思いますね。

剣術では新撰組の中でも一番上手かもしれませんね。ただ当時の剣術は"剣"だけでなく、柔術なども合わせて学びます。
体術で、長身の沖田や斎藤に永倉が並べるかは微妙ですね。総合するとやはり三人同じくらいの強さであると思って間違いないでしょう。





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