第五回:沖田総司

沖田総司です。

幕末の治安維持部隊、新撰組一番隊組長であり、剣術指南役を務めていました。
(一番隊は最も重要な任務を任せられる事の多かった隊です。)

9歳で試衛館へ入門。試衛館は天然理心流の道場です。

ちなみに、沖田総司は天然理心流のほか北辰一刀流の免許皆伝も受けていたと言われています。



彼は相当強かったようですね。幕末ということで結構資料が残ってるのでその強さが伺えます。
新撰組のなかでも

「竹刀を持っては土方歳三、山南敬助、藤堂平助、井上源三郎が子供扱いされ、おそらく本気を出したのなら近藤勇もやられるだろう」

と組員の間では話題だったようです。
まあ、実際に稽古では近藤勇よりも数段強かったようですね。

試衛館時代、神社へ奉納された天然理心流の額には、4代目跡目の近藤勇よりも沖田総司の名前が先に書いてあったそうで、彼がいかに期待されていたかがわかります。

ちなみに、近藤勇も相当の実力者です。
有名な池田屋事件から近藤勇の強さも分かるでしょう。

池田屋にて20数名の武士達に対し、新撰組は近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4人で斬り込みました。(10人という説もある)

新撰組の味方が到着した頃には、沖田は熱中症で昏倒、藤堂平助は額から出血、永倉新八は左手を負傷していますが、近藤勇だけは大きな傷もなく戦い抜いたそうです。
近藤勇は何度も危ない目に合いますが、甲高い声を出し一人で何人も斬り倒しています。かなりの活躍だったそうですよ。

ちなみに沖田総司も昏倒するまでは数人斬り殺しており、周りを囲んでいた侍達もその強さに戦意喪失してしまったそうです。彼が熱中症で昏倒した際には襲いかかるどころか、今だとばかりに逃げ出しています。

(よくテレビで見る池田屋で沖田が吐血するのは後々の創作で、本当は熱中症というのが最新の研究です)


永倉新八から「沖田は猛者の剣」と言われるほど彼の剣は荒々しく、組員からは「荒っぽくてすぐ怒る」と、彼の稽古はかなり恐れられたそうです。
剣の型や甲高い掛声は近藤勇そっくりだったそうです。構えに関しては近藤は腹を突き出して構えるのに対し、沖田はやや前傾になって構えていたそうです。

三段突きを得意技としていたそうですが、この説も結構有力です。というのは、土方歳三が実戦で使える技として突き技を重点的に組員へ指導していたそうで、新撰組の組員達はみな突き技が上手かったそうです。

剣術指導係の沖田ならかなりの突きを使えるのではないでしょうか。


いろいろな資料を見ましたが、

彼の剣を見た人達は敵、味方関係なく彼の実力を高く評価していますね。

ただ唯一、沖田のお兄さんの同僚が「われわれから見たらやっと目録程度」と発言しています。
まあ、綺麗な剣ではなかったということではないかと思います。

沖田総司は性格がなかなか温厚だったようで、よく笑う人だったそうです。
ただキレると結構な事をやる人だったそうですね。かなり冷酷な一面もあって、沖田はすぐ人を斬ると話す人もいました。まあ彼のキレたエピソードは結構恐いのが多いですね。

容姿ですが、彼のお姉さんの家の机の引き出しに写真が残っていたそうですが、紛失してしまったとかで今となってはわかりませんね。
新撰組に関わった人の話では、猫背で長身、肩が張り上がって肌が浅黒かったと言われていますが、沖田家では「総司は色白で小さい男だった」と伝わってるそうですね。ちなみにヒラメ顔ってのは信憑性の薄い作り話のようですね。

今回は

ランクC

でいかがでしょう。
歴史上、幕末の頃が1番刀による戦闘が行われたと言われています。ただ、やはり実戦経験は戦国時代の合戦を経験している兵法家には及ばないでしょう。
いざ戦ったら生死がかかっている分、出来ること(引き出し)の多さが勝敗を分けるのではないかと思います。
実際、江戸時代の庶民から伝わる話ですが、合戦から遠ざかったこの頃は、武士同士刀を抜いたが双方怖くて動けないみたいなことも多かったそうですしね。

剣豪

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